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2007.09.30

「キムチを売る女」ー映像表現の極北

タイトルに食べ物の名前が入っている映画に弱い。中国の朝鮮族を描いた映画だというということにも興味が湧いた。「韓国アートフィルムショーケース」という企画の中での上映で見たのだが、監督は朝鮮族で、撮影地も中国なので、いわゆる韓国映画とはちょっと違う。
「アートフィルム」と呼ばれる所以は、見た後で理解した。固定されたカメラ、音楽もなく、セリフも動きも最小限という独特の手法により、映画の中の娯楽的要素を極限までそぎ落とした作品。ある意味、見るのにエネルギーのいる映画である。

主人公は中国に住む朝鮮族の女性スンヒ。訳あって故郷を離れ、さびれた町に6,7歳の息子チャンホと二人で暮らしている。駅の裏の物置小屋を改造したような長屋でキムチを作り、「朝鮮泡菜」という看板を掲げた屋台で売って生計を立てている。
  朝鮮語で声をかけてくる同胞の男性キムにも、そっけなく中国語で答えるスンヒ。それでいて、仕事を終えて家に帰れば、チャンホにハングルの練習をさせる。「カ、ナ、ダ、ラ」とハングルのあいうえおを唱える声。日頃、付近の子どもたちと遊び回っているチャンホの日常語は中国語なのだ。部屋の中で、ベッド以外、たった一つの調度品である扇風機。その風に飛ばされるハングル文字の書かれた半紙。
  二軒長屋の隣人は夜の街で春をひさぐ4人の女たち。ある夜、彼女たちの客待ちの街角で、芒種の求人広告を見て、「私も田舎に帰って畑の手伝いをした方がいいんだけど」とつぶやくシーンがある。芒種は二十四節気のひとつで種まきの季節らしい。そして、この映画の原題は「芒種」なのだが、この題がこの映画において意味するところはよくわからない。それに対して日本語の題は即物的である。
 スンヒの孤独な日常、あるいは無邪気そうに騒ぐ娼婦たちのけだるい日常を襲う男たちの暴力と性的蹂躙。しかし、つねに決定的な場面は映し出されることなく、観客はフレームの外に立たされたまま、何が起こったのかを知らされる。やがて張りつめたものが切れるようにして破壊的な結末に向かっていく。
 (以下、ネタバレ)

 ある夜、チャンホとの質素な食事中、部屋の中を横切るネズミを見て悲鳴を上げるスンヒ。翌日、市場にでかけ、ネコイラズを買い求める。以来、部屋にネコイラズを振りまき、ネズミの死体を見つけると、それを処分するのはチャンホの役目となる。その殺鼠剤のまかれる同じ部屋の床には彼女の作るキムチの入った琺瑯の容器が並んでいることにふと不吉な予感がする。
 チャンホが誤って近所の家の窓ガラスを割ってしまう。その家の主人は「弁償しなくてもいいからキムチを持ってこい」といい、さらに、彼女に工場の食堂にキムチをおろす仕事を斡旋しようとする。しかしその恩恵を売る彼の目当てはスンヒの肉体であった。
 スンヒの屋台は、一度は警察による有無をいわさぬ摘発で自転車ごと取り上げられる。通りかかったキムとともに飲食店に入るスンヒ。「どうして他に同胞のいないこの町に住んでいるのか」「言えない」「同胞なのに」「同胞だから言えない」といいつつ、実は夫が金ほしさの殺人で服役中であることを語る。
 没収された自転車と屋台を古物商から取り戻すスンヒ。馴染み客となった巡査のワンは、路上営業の許可の申請に便宜を図る。警察署で申請を受理したのは女性の警官で、スンヒが朝鮮族であることを知ると、「朝鮮族の人を見るのは初めて。朝鮮舞踊できる?」と唐突に尋ねる。「教えて」と乞われ、警察の建物の外の狭い庭のようなところで踊るスンヒ。真似る女性警官。踊りの練習を終えて、署の大きな浴場で入浴する二人。二人の間には何かしら、心の交流が成立したようにも見える。が、その関係はそれっきり描かれない。
 隣人の娼婦たちもある日いっせいに摘発されてしまう。また、スンヒは密会現場を妻に踏み込まれ、苦し紛れのキムの言い訳のために売春容疑で逮捕されてしまう。顔見知りのワンは、スンヒをこっそりと逃がす・・・がその見返りに肉体を要求するのだった。
留置場を出て家に戻ってきたスンヒが目にしたのは、救急車で運ばれる白い担架だった。彼女の顔の表情の変化を見せまいとするかのように、カメラのピントがぼけていく。真っ赤な布に包まれた箱を手に道を歩くスンヒ。遺骨の入った箱なのだろうか。チャンホの願いを聞いて、故郷に帰ろうと決心した矢先に、そのチャンホを失ってしまったスンヒ。そんなスンヒのもとに結婚を控えた警官ワンが婚約者を連れて現れ、自らの結婚式の披露宴用に大量のキムチを注文していく。いつものように野菜を洗い、キムチを漬ける準備を始めるスンヒ。その手には、殺鼠剤の袋が。・・・不吉な予感は的中。何もかも失ったスンヒによる無差別な復讐。
 ラスト、これまでずっとシンプルなシャツとパンツのスタイルだった彼女が、長いスカートをまとい、無言で駅への路を歩く。踏切で長い貨物列車の通り過ぎるのを待ち、列車が通り過ぎた後、がらんとした駅舎にはいる。駅舎を抜けると、そこに広がる茫洋とした大地と意外な青草。明るく乾いた日差し。彼女はどこへ向かうのか。

 静かな映画である。絵が動かない。人がいない。音もない。駅の線路にある貨車は常に止まったまま(動くのは冒頭とラストだけ)。商店街にも人の気配がなく、幅広い街路を走る車もない。どの風景も乾いていて殺伐としている。あまりの殺風景さに見ていていたたまれなくなるくらいだ。こんなところにはとても住めない、と。この、まるで無人の町であるかのような描き方が、主人公の孤独を象徴しているのだろう。一カ所だけ、町の中の高台から見下ろすシーンがあり、それなりの居住地域の広がりのある町なのだと言うことがわかるのだが。
 また、つねに固定した視点から四角く切り取られた画面を見せられる。その見せ方に独自の美意識があるのがわかる。切り取られた画面の外側で起こっていることは見えない。このないない尽くしの映像に観客は禁欲を強いられる。
 正直言って、この映画の最初の15分、いや30分くらいはつらかった。途中で出たくなった。最後まで見るには忍耐のいる映画だったが、見たあとは不思議な充足感があった。それは、映画というより絵画展を見た後のような感覚に近かったかもしれない。あるいは、映像による美術作品といってもよいかもしれない。

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