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2006.03.17

質的調査のモラルとセンス

1年前にトンデモ本?「聖なる森」で何があったのかという記事を書いた。
外国人研究者によって英語で書かれた沖縄のノロについての本が日本人によって酷評されているという問題である。
いったい何がそんな反応を引き起こしたのか、好奇心に駆られながらも放置していたのだが、宗教学者の川橋範子さんによる批判論文「カミンチュを語ること―スーザン・セレドの『女性の霊的優越の脱本質化』は正しい戦略か」(『琉球。アジアの民俗と歴史』(国立歴史民俗博物館比嘉政夫教授退官記念論集)を読むことができ、ようやくその全容がわかった。

セレドという人のやっていることは、半世紀以上前にミードがサモアで行ったことに近い。が、もっとあくどい。ミードは、アメリカで起こっている問題(ティーンエイジの少女たちの生きづらさ)の解答を求めて未開の地、サモアに赴き、彼女の仮説にぴったりの事実を発見して帰国、その調査に基づいて書かれた「サモアの思春期」はベストセラーとなる(その後、その内容に疑問を持った人類学者がサモアを訪れ、当時のインフォーマントに会って詳しい話を聞いたところ彼女たちはミードを喜ばせようと事実と異なることを語ったことがわかる)。
セレドもまた、「女性の霊的優越の脱本質化」という理論を裏付ける実例を求めて沖縄にやってきた。ミードよりもお粗末なのは、まがりなりにもサモア語を習得して調査に当たったミードとちがって、セレドは日本語も当地の方言もまったくだめなこと、さらに、自分の能力がないために日本語による研究の蓄積を無視したことさえ、この研究目的には必要ないと正当化したことだろう。また、当時、まだ研究者として駆け出しだったミードと違って、セレドは宗教学の分野では権威的存在。その自分の権威を傘に、ほとんどの欧米学者が日本語文献に当たることもないからボロも出ないと高をくくったのか。また、彼女は言語の壁も地位の違いも越えて「女性であること」を共通の基盤としてノロたちと理解し合えたと思っているらしいが、それこそ、彼女のいわんとする「女性」であることを「脱本質化」するどころか「本質化」するという矛盾を犯している。いまの研究や調査に対する方法論や倫理はミードの時代とは大違いであり、そんな植民地主義丸出しのやり方は批判されてもしょうがない。彼女が調査した島の人は彼女が英語で書いた研究書を一生読まないかもしれないが、英語を理解して批判できる日本人、沖縄人は無数にいるということである。
川橋さんの論文に引用されているセレドと島の人との(通訳を介した)会話とその解釈のナイーブさには驚きを通り越してあきれるほどだ。
セレド:「沖縄では女性の方が男性よりも宗教的なことにおいては地位が高いの?」
カミンチュ:「沖縄では男も女も同じ地位」
セレド:「女の人は神さまにより近いの?」
カミンチュ:「ハッハッハ!」

この会話は、最近読んだ好井裕明『「あたりまえ」を疑う社会学ー質的調査のセンス』(光文社新書)の中に出てくるダメなインタビューの実例にそっくりだ。
著者の好井氏が学生時代に年輩の先生たちと一緒に被差別部落に聞き取り調査に出かけた時のこと。
「あなたはこれまでどのような差別を受けてきましたか」
「そんなん、差別なんて受けたことおませんわ。ここはええ村やし」
聞き取り対象の女性に軽くいなされて、好井氏はかたまってしまう。そして、「私は自らが抱いていたイメージや理解に見合う話を「聞き取ろう」「探し出そう」「吸い取ろう」としてうまくいかずに”かたまって”しまっていたのだ」と分析している。セレドは「ハッハッハ!」といなされていることにも気づかず、額面通りに受け取って沖縄のジェンダー・アイデンティティについて牽強付会な結論を下すのである。

ところで、この『「あたりまえ」を疑う社会学』は体裁は新書とコンパクトだが、とても中身が濃くておもしろい本だ。
世の中にはしょうもない「調査」が氾濫している。安易なアンケートを集計した意識調査。意味不明のマーケティング。そうやって集めた数字から適当にでっち上げたキーワードで世の中を分析し、面白おかしく読み物に仕立て上げた本なんかがよく売れていたりする。
この本は、そういう数字集めの量的な調査ではなく、ひとつの対象のなかに入り込んでおこなう質的調査の話。でも、いわゆる「調査法」の技術的な解説ではなく、「調査すること」における調査者の立ち位置とか、必須のセンスについての話が中心だ。
セレドのやったような民族誌なども質的調査のひとつだろうが、ここでは日本の中の被差別部落とか、障害者とか、市民運動、大衆芸能などの調査例があげられている。実際にすぐれた質的調査の事例を内容に沿って紹介する形ですすめられているのでどこを読んでも面白い。あ、わかるわかる・・・と言いたくなるような事例もいろいろ。
とくに副題にもある「あたりまえ」を疑うということは、「マイノリティ」とか「社会的弱者」を取り扱う上で必須のことだと思う。それについて書かれた第7章は「『普通であること』に居直らない」。
一例として挙げられているのは、「私は差別を受けたこともしたこともない普通の人間。そういう立場から、部落解放運動家のあなたの体験を伺いたい」というある評論家の発言。著者は「普通であること」の権力と書いているが、私も似たようなことを感じた経験がある。授業の中で取り上げたある「社会的マイノリティ」の事例に対して、ある学生が「やっぱり私は普通のがいいと思いました」というコメントを寄せてきた。私はそれを受けて次の回には、「普通という名の暴力」という話をしないではいられなかった。私は普通(あなたは普通じゃない)、普通だから何も悪いことはしていない。あー。普通がいいね、やっぱりという感覚が、実はいかに暴力的であるかということに、「普通」の人は気づきにくい。自分が普通であると思いこんでいることが普遍じゃないことには、ほんとに気づきにくい(これは、今、アメリカでやってる黒人が白人に、白人が黒人になって生活する実験的なTV番組なんかにも如実に表れているけど)。

この「質的調査のセンス」において、共通する内容を多く含むのが、上記の川橋範子さんと黒木雅子さんの共著の『混在するめぐみ ポストコロニアル時代の宗教とフェミニズム』(人文書院)。セレド批判の川橋さんと、以前にお会いしたことのある黒木さんが著者でなかったら手に取ることはなかった本だろう。最近は、理論的な本を読む頭の筋力が低下しているので、「ポストコロニアル批判」とか最近のフェミニズム理論などには、なかなかついて行きにくいのだが(ほんとに、脳髄に筋肉があるなら筋肉痛をおこしている)、でも語られている内容はとても深く、おもしろかった。
この本は、まさに副題通りの宗教とフェミニズムについての論集なのだが、その実例として日本の仏教界の女性運動と、日系アメリカ人女性にとってのキリスト教会についての質的な研究が含まれており、そのどちらも私にとっては知らなかったことばかりで非常におもしろかった。とくに、日本の仏教界で寺族と呼ばれる住職の妻の位置づけなど、びっくりすることばかりであった。しかし、宗教=女性に抑圧的なものととらえるのではなく、宗教に自らのよりどころを求める女性たち自身が解放の戦略を考えているという動きに「内側からの変革」として頼もしさを感じる。
大峰山問題なども、外部の人間がいろいろ理屈を述べ立てて外圧でこじ開けようとするのは、どこか変なのだ。
この本のプロローグにこんな文章がある。

現代日本の宗教教団における女性の評価をめぐって、「宗教は女性を抑圧する家父長制の道具だ」とさけぶ若い男性研究者、「宗教は社会の底辺にある女性に救いを与えてきた」と強調する年輩の男性研究者、そのどちらも否定し「自分こそが正しく女性の宗教性を理解できる」と主張するかのようなまた別の男性研究者。(中略)
フェミニズムは宗教を批判するのみではなく、宗教を再生させることも可能である。さらに宗教がフェミニズムに向かって新たなチャレンジを投げかけることもある。

私は、特定の宗教に帰依していないので、フェミニズムと宗教の交錯など考えたことがなかったのだが、いわゆる既成の教団宗教にかぎらない、さまざまな地域社会の中の信仰行事とか伝統というものまで拡げて考えると、伝統=女性の抑圧ではなく、おなじような交錯の場が見えてくるはずだ。そのあたりは、第二派フェミニズムが取り落としてきたところだ。だから、ポストコロニアルということになるのであろう。とくに、第二章のフェミニストとしての調査研究の方法論についての分析は、取り上げられている事象はまるで違うのだが、好井氏の本でいわれる「調査のセンス」と深く通底するものを感じた。冒頭に戻っていえば、セレドはポストコロニアル時代にあまりにもコロニアルなセンスで調査研究をしてしまったということになるかもしれない。

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コメント

『「あたりまえ」を疑う』読んでみます。
その筋肉痛というの、心当たりが……最近マルクーゼ読んで挫折しました。哲学者全般がだめっていうんじゃないんだけどなぁ。

投稿: mariko | 2006.03.17 19:31

『「あたりまえ」を疑う』は読みやすいですよ。
マルクーゼは訳文が悪いのだ!きっと。原文をmariko訳にしたらすっきりするのでは。
『混在するめぐみ』はその点では、文章はわかりやすい方なのです。悪いのは私の頭なのだ。

投稿: EMY | 2006.03.17 21:51

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